ときめき

好きについて語ること、それは自分を語ること。

青山吉能さんと「解放区」と僕の不協和音について。

「彼女の魂と"My story"」

はるかすさんという方の「解放区」についての歌詞解釈を読みました。

「驚いた」という気持ちが、すてきな感想だなと思ったのと同じくらいの質量でした。
だって、自分の抱いていた「解放区」のイメージとまったく違っていたのですもの。

でも、次の瞬間とても晴れやかな気分になりました。
同じ曲を聴いて、自分と全然違う解釈をする人がいるというのは、それだけ「解放区」という物語が持つ可能性の幅を示していると言えるわけです。
解放区という曲を大好きでいる僕の物語においても、それは幸福なことです。

 

はるかすさんの「解放区」の記事を拝読したことは、僕のインスピレーションをとても刺激する幸運なハプニングでした。
それは僕のオタクとしての立ち位置とはるかすさんのオタクとしての立ち位置の差異を比較することによって、より自分の立ち位置が判然としたからであります。

 

たとえば僕は、この「解放区」という物語を青山吉能さんの物語として捉えています。
しかし、はるかすさんは青山吉能さんの物語に、七瀬佳乃さんの物語もオーバーラップさせる手法をとります。
この違いはどこから来るものなのか。
こうしたオタク同士の差異について、ボーッととりとめもないことを考えることは、単に僕が僕についての自己理解を深めるという作用に留まらず、僕と「解放区」の間に結ばれる物語についての適切な距離を測る上で、この上なくよい材料となりました。

 

語る前に、あらかじめ断っておかねばならないことがあります。
オタク同士の、かの差異をもって、どちらが正しいとか正しくないとか、そういう議論をするのは全くもって無粋だということです。なぜなら正解なんてどこにもないのですから。

僕は思います。
作曲者とか作詞者の真の思いだとか、なんだったら青山吉能さんが実はどういう思いでこの作品を歌っているか、どうかさえも「それほど」大切ではありません。コンテンツというのはそもそも、クリエーターと消費者それぞれの物語が共鳴して起こるアンサンブルという現象のことであり、それはそれぞれ固有の体験として尊重されるべきことだからです。そして、この事実は、僕が悲しいまでの相対主義者であるということ以上の意味を持つと、僕は信じてやみません。

 

 

これは、もしかすると、しばしば見逃されがちの事実だと思いますが、コンテンツはクリエーターだけの物語で完結することはないわけであります。かならずコンテンツには、観客や消費者が想定されている。クリエーターは必ず消費者のことを思いながらコンテンツを制作するわけです。
ゆえに、クリエーターと消費者の距離感というのは必ずコンテンツに反映されます。されないなんてことは絶対にあり得ません。絶対にです。
これと同様にして、消費者もまたクリエーターのことを思いながらコンテンツを消費します。これについては「純粋にコンテンツだけを鑑賞している」という方も居るかも知れませんが、たぶん純粋にコンテンツだけを鑑賞する態度は、実のところかなり実現が難しいと思います。

 

こんな例え話をしましょう。
女の子と男の子がいたとします。女の子と男の子は同じ学校に通っています。僕たちはそれを俯瞰する立場にある学校の先生だと仮定しましょう。女の子は男の子のことを、現在のところあまり親しいと思ってはいません。しかし、なにかをきっかけに仲良くなりたいとは思っています。よって、その女の子は彼に喜んでもらえるように、なにかしらのアクションを起こそうとしました。長考の末の結論として、彼女は男の子に手作りクッキーを焼くことにした。
果たしてこのクッキーは、クッキーの風味や女の子の意志を取り巻く物語だけで完結するでしょうか?
女の子の意志はクッキーを解釈する上で当然大事なファクターです。しかし、クッキーを受け取った男の子がこのクッキーをどう食べるか、どう感じるか、そしてその行動にどういう意味を付加するのか。その意味を付加する過程において、男の子が普段女の子にどういった印象を抱いているかも、クッキーを解釈する上で多分に影響するのではないでしょうか。

と、このように、客観的に見てクッキーだけを純粋に評価するというのはかなり難しいと思います。とある女の子がつくった定冠詞付きの「The cookie」は、絶対に、ある男の子の物語も包括してこその物語です。ある男の子の物語を包括しない「The cookie」はまずありえないと断じてしまってよいでしょう。

 

これが僕はオタクとアイドルサイドをとりまく環境においてもほぼ成り立つと思っています。

重ねて言いますが、クッキーをそのまま食べて味だけを評価するなんてことはほぼ不可能なわけです。風味はどうだったという以上に、クッキーをもらった、クッキーを食べた、女の子はどんな女の子で、自分とはどういう関係性である、という余分な情報がクッキーには付与される。いや、されてしまう。クッキーを貰った瞬間に、クッキーと女の子と男の子を取り巻く物語が勝手に起動するわけであります。
「ある女の子」が例えば「青山吉能さん」になったとしても事情は同じです。
しかし、ある男の子が最後まで「ある」という不定冠詞で表現される以上「The cookie」を取り巻く物語は実に多様な変奏パターンをもつということも言えましょう。

青山吉能さんと、ある男の子はどのようにして知り合ったのか。いままではどういう印象を抱いていて、ゆくゆくはどういう関係性を構築していきたいのか、などなど。「ある男の子」と「青山吉能さん」の関係性、すなわち物語が、オタクと青山吉能さんとの現象である「The cookie」に付加される意味を変えていきます。そして「ある男の子」を「あるオタク」として、「The cookie」を「解放区」にしても事情はきっと一緒でしょう。
言い換えれば、解放区は「あるオタク」とのコミュニケーションであるから、オタクの数だけ変奏パターンが存在すると言えるわけです。


ここでようやく結論じみたことが言えますが、オタクの数だけ「解放区」とのアンサンブルという現象が存在すると言えるわけであります。そして、オタクは必ず固有の物語が発する音を持っている。無物語で無音であるオタク、ということはまずありえません。
さきほど若干過激に、青山吉能さんの意志が「それほど」重要でないと話したのは、これは青山吉能さんの独唱という意味のみならず、あるオタクとの出会いの場に生成された「アンサンブル」であるということを意味していると思って頂ければ幸いです。

あるオタクである僕と「解放区」と青山吉能さんを取り巻く物語というのはどうしても、自分というファクターや物語をを通して聞いた音になってしまいます。
これを「アンサンブル」と僕は呼ぶわけですが、この事実は好きなものを好きであるためには自分が必要不可欠な存在である、という「福音」であるのと同時に、オタクの限界を指し示す物語でもあります。

どうしても自分の前に現前した現象についてしか語ることができない。「解放区」を聞く上で、自分というノイズを絶対にキャンセリングすることはできないわけですから。

 

僕がどうして好きなものを語るよりも先に自分語りを辞めないのかという理由はこうしたところにあります。自分にとって固有に現れた現象について語る以上、自分という物語が反映されている楽曲解釈について語る以上、自分について語っておくということはこの上なく大事なことである、と信じているからです。

 

もう一つ付け加えねばならないことがあります。
自分以外の、あるオタクの和音を聞くことは、必ず青山吉能さん固有の音を想定するのに役に立ちます。あるオタクとあるオタクである自分が発している音を比較すると、自分がどういうパターンを持つ音を発するかどうかを解析することができるからです。

 

冒頭に僕とはるかすさんの「解放区」解釈の手法には大きな差異があると言いました。そして、その差異は僕とはるかすさんがどういう物語を持つかであり、それはどちらも「解放区」のアンサンブルとして等しく価値を持つものです。
しかし、アンサンブルであるということは、同時に不協和音の可能性を示すものでもあります。こうした不協和音もまた味わいのあるものではあるわけですが、僕は不協和音をあまり好むプレイヤーではないので、できることならメジャーコードで王道に進行していきたいな、と思う次第です。

しかし残念ながら、僕もはるかすさんのように、きれいに魅力的な進行ができるわけではありません。

といったところで、タイトルの回収です。

僕と「解放区」があまり不協和音にならないように気を配りながら、いつか上げるであろう次回以降、僕と「解放区」という現象について考えていきたいと思います。

 

それでは(* ˘ω˘ )